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ディーン一昨年まで日本ではほぼ無名だった

ディーン・フジオカですが、

NHKの朝ドラ『あさが来た』での

五代友厚役で大ブレイクを果たしました。

 

ディーン・フジオカがどのような半生を辿ってきたのか、

【金スマ】で詳しく紹介していましたので、

記事にまとめました。

 

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ディーン・フジオカの輝ける半生!

ディーン・フジオカは、今でこそ日本でも知られる俳優となりましたが、

数年前は日本では無名でした。

 

が、実はアジア圏では熱狂的ファンがいる人気俳優だったのです。

 

なぜアジアで俳優をすることになったのか?

なぜ日本で俳優となったのか?

など順を追ってご紹介します。

 

ディーン・フジオカは、1980年8月19日生まれの35歳。

福島県生まれ、千葉県育ち。

 

父は早い段階でIT関連の仕事についていたそうです。

母はピアノの先生。

 

父の教育方針で、お風呂で数を数える時は、

中国語で数えていたそうです。

父は中国で生まれた日本人ということで

中国語で、ということになったようですね。

 

ディーン・フジオカは、れっきとした日本人です。

 

ディーン・フジオカのプロフィールは

ディーンフジオカは他言語を操る!結婚や子供は?妹は?高校は?

をごらんください。

 

【金スマ】では、ディーン・フジオカの赤ちゃんの時からの

写真が出ていましたが、どれも可愛くて

特に中学校くらいからは顔立ちの整った

本当にしゅっとしたイケメンとなっていました〜

 

「モテた?」という質問に

「いろんな出会いはありました」

と答えていました。

もう相当モテていたでしょうね〜

 

ちなみに、ディーン・フジオカは

4人兄妹の長男です。

 

1997年17歳の時に、『ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト』に

妹が勝手に応募して出場となり、

応募総数10,563人の中で最終選考6人に残りました。

 

デビューの話が持ちかけられたわけですが、

「特に芸能界とか興味ないんで」

と断ったそうです。

余裕?のかっこよさがあります!

 

というか、

「もっとやりたいことが他にあったという方が正しいですね」

ということです。

 

高校生だったディーン・フジオカは将来について

芸能界とは別のところに目標があったようで、

「日本で会社勤めをして、というよりアメリカで

新しいIT関連の仕事をすればビル・ゲイツやジョブズのような

トップになれるんじゃないかな」

と。

か、かっこいいです!

父親の影響が大きかったのでしょうね。

 

1999年の19歳の時、高校を卒業後、単身アメリカ・シアトルに留学します。

そこでお世話になったホストファミリーの父から呼ばれた相性が「ディーン」

だったそうです。

 

IT学科を専攻しながら、夜はバンド活動などアメリカで青春を謳歌。

アメリカに定住し、ゆくゆくは会社設立を考えていたそうですが、

2001年9月11日(21歳)の同時多発テロが起き、外国人へのビザが

発行されづらくなったそうです。

そのため、定住を断念せざるを得なくなってしまいます。

 

夢は破れてしまいましたが、その後、ディーン・フジオカは、

アルバイトで貯めたお金や身の回りの物を売って

2003年(23歳)、アジアにサイドカーでバックパッカーの旅に出ました。

 

北京→ベトナム→カンボジア→タイ

陸路で3ヶ月かけて回り、2004年(24歳)に飛行機で香港に立ち寄ります。

 

香港に滞在して2週間が経った頃、中心街・ワンチャイで

夜のクラブイベントに飛び入りで参加し、

アメリカで鍛えたラップを披露すると、

それを見ていたファッション誌の編集者から

モデルのスカウトを受けます。

ここで運命ががらりと変わったわけです。

 

こうして香港の芸能界にデビューしました。

 

ここで、日本名より覚えてもらいやすいということで、

【ディーン・フジオカ(DEAN FUJIOKA)】と名乗り始めました。

 

ファッションショー、ミュージックビデオ、CMと活動の幅が広がっていきます。

さらにソニーのCMに抜擢されました。

 

映るだけでステータスというワンチャイにある

タイムズスクエアの大モニターで流れたことがきっかけで

食べていけるようになったそうです。

 

ここまでたった4ヶ月間!

クラブでスカウトされてから、4ヶ月でモデルとして

食べていけるようになったということです。

すごいですよね!

まさにスター街道。

 

ディーン・フジオカは、当時のことを振り返って

「貧乏バックパッカーだったので、正直お金が目的だった。

とにかくサヴァイブしてゆくために色々やっていたら

たまたま上手くいったのがモデルだった」

と語っています。

 

生きていくためにいただいたチャンスを自分の物にしたわけですね。

 

一度日本で芸能界の誘いを断ったわけですが、

なぜ香港で芸能界デビュー?という謎も解けました。

 

その後、キャリアを重ねていき、ある時、

『演技に対するパッション』を発見したそうです。

 

2005年25歳の時、香港映画「八月の物語」でいきなり主演を

獲得します。

俳優としての初仕事が主演!だったそうです。

 

「やる気が無くてもスカウトされ、やる気を出せば主演に抜擢される」

とは、【金スマ】でディーン・フジオカの解説役のマキタスポーツの言葉です。

(ちなみに二人は今回、初対面だそうです)

女子高生とディーン・フジオカ演じる学生の淡い恋を描いているそうです。

 

なんと、この映画に出演したのはバックパッカーとして

香港に立ち寄った翌年で訪れるまで喋ったこともない広東語を

猛練習の末、なんとかこなしたのだそうです。

映像が流れましたが、とても綺麗な発音に聞こえました。

 

今度は、この映画を見た台湾の大物プロデューサーである

アンジー・チャイから声をかけられます。

彼女は、2001年に台湾版『花より男子』が大ヒットさせた

プロデューサーでした。

 

2006年26歳の時に、ディーン・フジオカは、

活動の拠点を台湾に移し、映画だけでなく、テレビドラマにも出演。

 

『ホントの恋の見つけかた』という

貧乏料理人とお嬢様の恋を描いたドラマで、

主人公の恋敵となる日本人の天才ピアニスト(イケメン役)

として登場。

 

言葉は自然な北京語で恋のライバルを熱演しました。

 

台湾に来て2年後、2008年(28歳)で出演したのが

『笑うハナに恋きたる』というドラマで、

個性派ギャルに想いを寄せるイケメン御曹司役に。

(太った少年がダイエットでかっこよくなるという強引な?設定)

 

このドラマは台湾だけでなく、中国全土で放送され、

中国全土で視聴率1%で成功と言われている中、

驚異の8%を叩き出しました。

 

視聴者を虜にしたディーン・フジオカは、

一躍人気者となっていきました。

 

この時、台湾に来てわずか2年で

発音が難しいと言われる北京語を流暢に話していました。

 

ですが、ここでスター街道まっしぐらだった

ディーン・フジオカに悩みが出てきます。

 

ファンに囲まれて、キャーキャー言われ、

街に一切出られない状態だったそうです。

 

「俺、こういう人生、生きたかったのかな