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菅原文太『仁義なき戦い』や『トラック野郎』で

知られる名優の菅原文太さんが

11月28日に都内の病院で、

転移性肝がんのため亡くなっていたことがわかりました。

 

享年81歳。

 

日本映画界に悲しみの声が広がっています。

 

長男の菅原加織さんとの絆や、エピソードをまとめました。

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菅原文太が転移性肝がんで死去

昭和の名優である菅原文太さんが、転移性肺がんで亡くなり、

葬儀が、11月30日の午後から太宰府天満宮 祖霊殿(福岡県太宰府市)で

近親者のみで執り行われ、12月1日に納骨されました。

 

妻・文子さんのコメント

七年前に膀胱がんを発症して以来、以前の人生とは違う学びの時間を持ち、

「朝(あした)に道を聞かば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり」 の心境で日々を過ごしてきたと察しております。

 

「朝(あした)に道を聞かば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり」とは

「朝、人としての道を悟ることができれば、その夜に死んでも悔いはない」

(孔子「論語(里仁)」より)

という意味です。

 

晩年の菅原文太の生きざまというものが、

この言葉から来ているのではと思わせる一文です。

 

高倉健さんの訃報を聞いて日も浅い時に、

菅原文太さんまで、と驚きとショックです。

 

どこかストイックさを感じさせる昭和の俳優さんの

いろいろなエピソードを聞くたびに、本当に素敵な人が

一人、また一人、と亡くなっていくのだな、と寂しく思います。

 

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菅原文太はなぜ太宰府天満宮での葬儀となったのか?

菅原文太は東京で亡くなりましたが、ご遺体を運んでまで、

葬儀は福岡県の太宰府天満宮で執り行われました。

 

なぜでしょうか?

 

菅原文太は、同姓の菅原道真に関心を寄せており、

菅原道真をまつった太宰府天満宮の信徒会に生前入会し、

納骨堂と墓所の土地を購入していたようです。

 

2001年10月に長男の加織さんが死去したころに入会したそうです。

祖霊殿の納骨堂には、加織さんの遺骨が納められています。

 

菅原文太は加織さんに会うため、1年に何度も息子が眠る福岡市を訪れており、

周囲には、

「その時が来たら、息子の眠るところで」

と告げていたということで、太宰府天満宮での葬儀となりました。

 

息子を本当に愛し、その死を悼んでいたことが伝わってきます。

 

菅原文太の家族への思いは?

子供のしつけなどは、全て奥さんに任せていると

語っていた菅原文太ですが、

1985年に、妻との別居が報じられた際には、

家族への思いを熱く語っていました。

 

「やっぱり、おれにとって子供は宝だから。

何よりもやっぱり一番、自分の生命以上のものだから。

子供は。女房だってそうだ。自分の女房だって大事。

そういう名誉、俺の名誉はどうでもいいけど、

女房、子供が傷つけられたというのは、

それは親父として、親として、男として闘うというのかな」

 

一男二女の家族を愛する素敵な父親だった事が伺えます。

 

1992年には、”素敵な父親”に贈られるイエローリボン賞を受賞しています。

 

父親として子供に伝えてきたものは?という質問に、

「俺はもう何をやってもいいと。

だけど人間として真っ直ぐに生きろともうそれだけだ。

他には何もない。

3人ともうちの子供は、ケガひとつせず、病気ひとつせず、

無事に元気に育ってるから、

それが俺のひょっとしてこういった賞(イエローリボン賞)をもらえる資格かなと。

唯一の。そう思ってるよ」

と、子供への思いを語っています。

 

菅原文太の長男・加織さんの事故死とは?

父親の後を追うように、俳優を目指した長男の加織さんでしたが、

2001年10月 踏切で電車にはねられ、加織さんは、

31歳の若さで突然この世を去りました。

 

踏切で電車にはねられるというのは、自殺かと思ってしまいますが、

どうも携帯電話をしながら遮断機をまたいで線路に入って

事故にあってしまったようです。

 

携帯電話をしていたので、警報機の音が聞こえなかったのか、

お酒を飲んでいたという話もありますので、

注意散漫となっていたのかもしれません。

 

自殺ではないようですが、どちらにしても愛する子供を突然失ってしまい、

菅原文太は、生きる気力さえ失いかけたそうです。

 

息子の死について、多くを語らなかった菅原文太ですが、

週刊誌の取材で下記のように答えていました。

 

「時折、『地獄を見たのでは?』と聞かれるけど、

それは適切な言葉じゃないね。

(中略)人生観とは自分が生きる源だ。

それが変わったということで、返事と思ってほしい」

引用元:「女性自身」2003年2月13日号

 

息子の死を知った時、人目もはばからず号泣したそうですが、

葬儀では、当時5歳と2歳の孫に父親の死を知らせてはいけない、あやしていたそうです。

 

愛する子供を失う辛さ苦しさを想像するだけで涙が出そうになりますが、

どれほどの辛い悲しい思いを抱き続けたのかと思うと、胸が締め付けられます。

 

晩年、菅原文太は脱原発や食の安全を訴えていますが、

息子の死で辿り着いたのは、生きることへの意味だったのかもしれません。

 

菅原加織(享年31)の略歴

  • 1970年2月25日生まれ
  • 高校在学時に「恋する女たち」で芸能界デビュー
  • 俳優をやめ、ミュージシャンを目指す
  • カナダに留学
  • 帰国後に俳優復帰
  • 1992年「ビッグボス」で、父・文太さんと本格共演
  • 2001年10月24日に死亡

留学先から、父である菅原文太に電話をし、

「やっぱり、俺役者やるよ」と電話があったそうです。

 

のちのインタビューで、

「お父さんがいるから芸能界でやっていけるのではないか」

という安易な気持ちで始めたようですが、やってみると壁があり、

父の仕事に対する素晴らしさや厳しさを改めて実感したそうです。

 

その後は一切、父の名前を出すことはなかったそうです。

 

が、菅原文太は、周りの方々に出向いては、

「息子のことをよろしくお願いします」と挨拶をしていたということで、

息子に対する深い愛が感じられます。

 

菅原文太のエピソード

菅原文太の教育方針は、子供に対してエアコン(冷房)は一切禁止だったそうです。

 

また、テレビは、週1回しか見てはいけないという方針で、

どうしても見たければ録画をして3時間、しかも休みの日しか見てはいけないという

決まりだったそうです。

 

文明の利器に流されてはいけない、と教育していたそうです。

 

『木枯し紋次郎』の時のエピソード

船に乗っての撮影の時、撮影班は陸地にいて、

撮影中に船が200mも沖合に流されてしまった。

 

女優さんを船にのせたまま、菅原文太が着ていた着物も全部脱いで、

なんと1時間も一人で船のロープを引っ張って、陸に着けたそうです。

 

遠泳をやっていたことがあって、こういう時は大丈夫、こういう時は危険だ、

という判断が出来たので、出来た、と言っていたそうです。

 

すごすぎるエピソードです。

菅原文太からは、本当に”男”を感じますね。

 

菅原文太と高倉健のエピソード

1975年公開の映画『神戸国際ギャング』他で、

菅原文太と高倉健は共演しています。

 

『神戸国際ギャング』で、終戦直後の神戸を舞台に

暴力団と壮絶な戦いを繰り広げるギャング団のメンバーを演じた二人。

 

高倉さんは、生涯演じることにこだわり、映画俳優であり続けました。

 

一方、菅原文太は、晩年俳優業から引退を表明し、

有機農業に取り組んできました。

 

そこには、菅原文太が味わった深い悲しみや

苦悩が大きな影響を与えたとも言われています。

 

菅原文太に寄せられる悲しみの声

数々の名作とともに、日本の映画界を支える若い世代を育てた

 

菅原文太の付き人だった宇梶剛士(52)のコメント

「18歳の時に弟子にしていただきました。

若き日に、いつも静かに本を読んでいる親父から、

俳優の在り方を学んだように思います」

 

俳優を目指していた宇梶剛士を付き人に誘ったのは、菅原文太だったそうです。

「菅原文太という人は、いつも弱き者の味方でした。」

と、菅原文太の死を偲んでいます。

 

映画『妖怪大戦争』で共演した神木隆之介(21)は、

「本当の祖父のようでした。またご一緒したいと思っていましたので、本当に残念です。」

 

映画『わたしのグランパ』で共演した石原さとみ( 27)は、

「そこにいるだけで伝わる、人としての生き様が、存在が、何よりもの説得力なのだと

子供ながらにはっきりわかりました」

 

様々な人が菅原文太の死を悼んでいます。

 

菅原文太の最期のメッセージは?

菅原文太は、俳優の仕事を断る一方で、

ラジオの仕事は最後まで続けていました。

 

ニッポン放送「菅原文太 日本人の底力」

11月30日放送(10月24日収録)で、

「そう意識しなくても、自分が常に静かな心境でいられたら、それは最高ですね」

「若い時は強くなりたい強くなりたいと思うだけで、ちっとも努力してこなかったんで

今になって失敗したな、と思うんだけど、

しかし今は自然体で来て割と”静かな心境”でもあるから」

と語っています。

 

最後のメッセージは、まるで自らの死を予感するかのようなラジオでの発言でした。

 

菅原文太のプロフィール

本名:菅原 文太(すがわら ぶんた)

愛称:文太兄い、文ちゃん

生年月日:1933年8月16日(享年81歳)

出身地:宮城県仙台市

職業:俳優、声優、ラジオパーソナリティ、農家

最終学歴:早稲田大学第二法学部法学科 中退

 

1954年21歳の時に劇団四季1期生(研究生)として入団し、役者人生が始まる。

1957年 日本初の男性専門モデルクラブを設立。

1958年 映画デビュー

1965年 32歳で、妻・文子さんと結婚

1973年 任侠映画を中心に活躍

1980年~ テレビドラマや舞台などで活躍

2001年 『千と千尋の神隠し』で声優に初挑戦。

長男の加織さん(31)が、踏切で電車にはねられ死亡

2003年 9年ぶりに映画で主演復帰

2007年 膀胱がん発症

2009年 山梨北杜市で農業を始める

2012年 役者の引退宣言

国民運動グループ「いのちの党」を結成(原発などの反対運動)

2014年11月28日 81歳で、転移性肝がんによる肝不全のため死去

 

菅原文太の名を世に知らしめるきっかけとなったのは、

1974年に公開された『仁義なき戦い 完結篇』でした。

当時、菅原文太は40代。

 

血で血を洗う広島の暴力団抗争を描いた作品で、

菅原文太は、実在した人物をモデルにした暴力団員を演じました。

 

菅原文太は、広島弁がすごく上手なので、広島の方かと思っていたら、

宮城県出身だったことに驚きました。

 

ドラマなどで広島弁を話す俳優さんは良くいますが、

ニュアンスが違うな~、と思ったりすることが多いのですが、

菅原文太は生粋の広島人かのように上手な広島弁でした。

 

体調面では、膀胱がんまでは病気とは縁がなく、

お酒も良く飲むなどして過ごしてきたそうです。

 

東映に入った時は、高倉健、鶴田浩二、梅宮辰夫など

蒼々たるメンバーが既にいて、その中で、

這い上がっていった本当の苦労人なのだそうです。

(前田忠明 談)

 

菅原文太のコンプレックスは、体が細いことで、

身体を造ろうとしたが、どうしても出来なかったそうで、

背広を着れば肩は下がるし、裸になれば鎖骨が見えるということで、

役作りのほかに、衣装を着る時に苦労をしていたようです。

 

深作欣二監督の『仁義なき戦い』をはじめ、

数々の名作に出演し、強い男を演じることが多かった菅原文太ですが、

『北の国から ’92巣立ち』で、誠意について説く名演は

本当に素晴らしかったです。

 

CM「朝日ソーラー(鬼瓦編)」(1990年)の

「朝日ソーラーじゃけん」というセリフの「じゃけん」というフレーズが人気になりました。

 

『仁義なき戦い』の主題歌である「吹き溜りの詩」が、1974年に出ていますが、

音源があることが分かったので、年明けにCDで発売されるそうです。

菅原文太と高倉健の歌声が蘇るそうです。

 

晩年は、故郷・宮城県を襲った東日本大震災と長男の死が

菅原文太の生き方を大きく変えました。

 

脱原発や平和についても積極的にメッセージを送っていて、

自然の大切さ、命の大切さを真剣に考えていたようです。

 

東日本大震災時には、避難所を訪問し、被災者を見舞いました。

 

そして、

「今、こういう時に、どういうテーマであれ、

映画を撮っている時ではないから。

現地の人(被災者)からしたら、

どんな映画を見たって心がそんなに癒されるものではないし」

と、主演を予定していた映画の降板を決断しました。

 

被災地の復興や平和を訴える活動の傍ら

レギュラーの仕事として続けていたのが、ラジオ番組でしたが、

静かに送ってほしいという本人の意思があったようで、

ニッポン放送にも死は知らされなかったそうです。

 

昭和の名優がまた一人、静かにこの世を去ってしまいました。

 

ご冥福をお祈りいたします。

 

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