明治を代表する女性実業家の広岡浅子を
モデルに、”あさ”が実業家として活躍するお話です。
現在、”あさ”が石炭の事業に乗り出そうと
苦心していますが、あさは一体どういった事業に
携わったのでしょうか。
あさが携わった事業がどういったものだったのか
調べてみました。
あさが携わった事業は?
”あさ”こと広岡浅子は、簿記や算術を独学で学び、
時代の移り変わりで両替商(加島屋)だけではやっていけなくなることを
鋭く察しており、異分野の様々な事業を展開していくことになります。
●加島炭鉱
夫の広岡信五郎から聞いた炭鉱に新たな事業の可能性を感じた浅子は、
自分の嫁入り道具、結婚の持参金、加島屋の米蔵などを売却し
工面したお金で九州筑豊の潤野炭鉱を買収し、
1884年(明治17年)ごろから炭鉱事業に参画します。
その際、ピストルを護身用に懐に忍ばせ、炭鉱に単身で乗り込み、
荒くれ者の男たちを説き伏せたといいます。
その後、なんとか利益が出るようになりますが、
一度大きな事故が起き、死亡事故となってしまいます。
浅子は大病を患った娘をおいて、遺族を見舞い、
謝罪と賠償を行っていきます。
加島銀行の設立を目指していた時期でしたが、
この事故のため、銀行設立は延期となります。
その後、事故が起きないように細心の注意を払いながら、
この炭鉱は利益を上げ続け、加島屋の屋台骨になっていきます。
この炭鉱事業により、広岡浅子の名声を高めることになりました。
●加島銀行
明治初期、外国から入ってきた『銀行』という新たな金融機関に
浅子は興味を持ちます。
実家の三井家が1876年に日本初の三井銀行を設立したということも
浅子を発奮させます。
浅子は資金を貯め、 1888年(明治21年)に加島銀行を設立し、
当時としては珍しい女性の銀行員も熱心に教育しています。
が、昭和恐慌の影響を受け、昭和12年に廃業となりました。
●広岡商店
加島銀行を始めた時、隣地で始めた広岡商店では、
当時、増加していた紡績会社に目をつけ、
外国から綿花を輸入し紡績会社に卸すという
事業で着々と支店を増やしていきました。
●大同生命保険
浅子は乳がんという大病を患いました。
その際、これから人の寿命が伸びると感じた浅子は
加島屋が手がけていた「朝日生命保険」を同業他社と合併することで
今後大きく成長するであろう保険事業を拡大させることにします。
そこで「朝日生命保険」「北海生命」「護国生命」の三者が合併し
『大同生命』が誕生しました。
この『大同生命』の名前は、「小異を捨てて大同につく」という
ことわざから命名されたそうです。
●尼崎紡績(ユニチカ)
事業は浅子に任せ、謡曲に夢中だった信五郎だったが、
絹織物の輸出が急激に伸びていることに目をつけ、
謡曲仲間とともに尼崎紡績を起業する。
尼崎紡績の初代社長になった信五郎に浅子も真剣に助言をし、
夫を見守った。
信五郎はこの頃、事業家としての手腕を発揮し始め、
のちに加島銀行の二代目頭取、大同生命副社長となっています。
尼崎紡績は現在のユニチカとなっています。
●日本女子大学校
幼い頃に学問を禁じられた浅子は、
日本初の女子高等教育機関である日本女子大学校(のちの日本女子大学)の
設立に深く関わっています。
梅花女学校の校長だった成瀬仁蔵の『女子教育論』に共鳴し、
金銭の寄付だけでなく、的確なアドバイスと政財界の有力者に
協力を呼びかけるなど、強力な援助者となりました。
また、実家の三井家から目白台の土地を寄付を取り付け、
日本女子大学校を設立に導きました。
広岡浅子は、「七転八倒」を座右の銘に、困難に面しても
決して諦めず、前に突き進んでいきました。
現在でも大企業として活躍している起業を立ち上げているのが
すごいですね。
ちなみにあさの私生活ですが、子供は娘を一人授かったようです。
が、後継者となる男の子はできず、侍女のムメに代理母を頼み、
男の子が授かるまで4人の子供を産んでもらったそうです。
その男の子はのちに、大同生命の四代目社長となります。
あさはムメに十分な遺産をのこしたそうです。
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