【ノーベル物理学賞】受賞した3人の家族や周囲の反応は?人柄は?

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青色発光ダイオード

出典:ameblo.jp

ノーベル物理学賞を受賞した

赤崎勇氏、天野浩氏、中村修二氏の3人は、

どんな家族がいらっしゃるのでしょうか。

 

受賞までの道のりやお人柄が伺える

ご家族や周囲の方の

反応やお話をまとめました。

 

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■天野浩氏、赤崎勇氏、中村修二氏の家族の反応は?

ノーベル賞受賞の3人の方の家族や周囲の反応やお話から、

お三方それぞれの素顔が見えてきて、非常に興味深いです。

 

 

中村修二氏の家族の反応は?

『原動力は怒り』という中村修二氏の素顔は

どういった方なのでしょうか。

 

中村修二氏の兄の中村康則さん(医療機器販売メーカーの社長)が、

テレビで弟の修二氏のことを語っておられます。

お顔が、弟である中村修二氏に似ています。

 

ちなみに、中村修二氏は次男で、兄弟は、姉・兄、弟の4人姉弟とのことです。

 

受賞後、兄の中村康則さんと

「(電話で)一言おめでとうということで(話した)

親父が生きていれば一番喜んだんだろうな、ということを言うと、

「うんうん」と言ってました。」

と、喜びを分かち合ったようです。

 

中村修二氏の子供のころのお話です。

「(子供のころから)数学的な要素はずば抜けたものがあるし、

わからないところは親父に聞いて、親父は言葉でうまく褒めて

その能力を活かそうと(思っていた)

特に天才とかいうことではなく、そういう意味での努力をよりしていた。

兄弟の中でも、一番の努力家で、小さい時からそういう感じでした。

人以上に努力をする、負けず嫌い、学び勉強する、そういうところが、

こういう結果に結びついたと思います。

良くやったと褒めてやりたいです」

 

中村修二氏は、天才型ではなく、努力の人なのですね。

 

「21年間の悲願がようやく叶いまして、

親父は亡くなったんですが、母が喜んでると思いますし、

21年間は長かったです。

ダメだと思ったことも時もあったんですが、

ようやく認められて本当に感激しております。」

 

兄弟で、支え合っていたことが伺えるエピソードです。

 

下記は、兄の中村康則さんへのインタビューでのQ&Aです。

 

Q.今年は(ノーベル賞を)取れるのではないかと思ってましたか?

「もう90%以上、私は今年もダメだろうと思ってたんですが、

あと10%虫の声がしましてね、ひょっとしたらという、

今年は日本人が受かるということも報道でしてましたんで、

ひょっとのひょっとと、思ってました。

10%の確率で受賞もらえまして、本当に感謝しております」

 

Q.弟さんは小さい頃はどういうお子さんだったのですか?

「姉がおりまして、男3人の4人姉弟で、常に毎日のように

兄弟ケンカをしてまして、たとえばリンゴを4つに分割すると

どれが大きい小さいというようなケンカを常にしているというような感じです。

修二は、そういう時も冷静沈着で、小さくても大きくても、ケンカを嫌い、

小さくても最後に残ったのを素直に食べるという、

そういう環境を見て判断するというのが

幼少の時代からあったかな、という風に思っております」

 

Q.小さいころから、いろんなことに興味を持っていたのでしょうか?

「親父が四国電力の変電所のエンジニアをしてまして、

当時は、白熱電球が壊れるということがよくありましたが、

なぜ壊れたのか、よく親父に質問をしていたのを印象に残っています。」

 

Q.話していたり、表情を見ますと大変意志が強い方だなと思うのですが、

負けず嫌いなところはあるのでしょうか。

「あると思いますね。兄弟ゲンカを男同志でよくしていたけど、

修二は次男ですので、悪いところより良いところを盗んで

自分のものにしていくという、要領のいいところがあったと思います」

 

Q.受賞するまでで、一番、大変だったところはどういうところなのでしょうか。

「当時、日亜化学さんにいて、自分でやらしてくれと提案をし、

それを最後まで自分でやり遂げた結果を、

青いLEDを仕上げたというところは、

組織の中の呪縛とか、サラリーマンの考え方とか捨ててですね、

一研究者として組織を無視し、自分が孤立感の中で、結果を出したというところは、

本当によくやったと思うし、その頃、我々も家に帰ってきて話をしたのですが、

本当に孤立無援でやるところまでやるという形で、本当にやっとりました。

あまり守秘義務があって、大きいことは話が出来なかったのですが、

やる根性だけは立派なもんだと思っています」

 

Q.研究の途中で弱音を吐いたことはあったのでしょうか?

「そういう弱音は一度もありません。

聞いたこともありませんし、

本当にコツコツコツコツやり遂げたと思います」

 

Q.お会いになるのはいつになりそうですか?

「まだこれから忙しくなると思います。

取材とかも色々入っているようですし、

日本に帰ってくるときには、ぜひ会いたいと思います。」

 

Q.大好物などあるのでしょうか

「なんでも食べますよ。

四国ですので、瀬戸内海の小魚ですとか、

刺身とか魚が好きです。

魚を肴にして一杯やってますよ」

 

Q.お酒も良く飲まれるのですか?

「良く飲みます。強いです。」

 

Q.小さいころからの両親の教えは?

「親父は言葉少ないんですが、親の背中を見て育つという典型でした。

親父の行動規範で、子供たちを指導していました。

特に修二は親父が電力のエンジニアですので、そういう背中を見て、

親父がいろんな電球や大工をやると、

修二も図画工作など一緒に手作りでしておりました。

非常にモノづくりが得意で好きだったんだなと思い出します。」

 

 

兄の中村康則さんは、インタビュー時、

幕張のシーテックジャパン2014の会場で、

3D裸眼モニターという製品の展示をしていました。

 

3D裸眼モニターは、将来、メガネがなくても立体で見えるという

商品だそうで、インタビュー時は、製品のCMも兼ねておられ、

明るく楽しいお兄さんだな、と思いました。

 

3D裸眼モニターは、弟の修二氏が開発したLEDを

バックライトに使用し開発されたそうです。

 

「修二のデバイスを使わないと、時代の流れについていけない」

と語られており、青色LEDの重要性がよくわかります。

 

Q.今回は(弟に)負けちゃった?

「正直もう、それが事実です。

ノーベル賞取った男にね、勝った負けたは言えないです。(笑)」

 

父親が電気のエンジニアで、子供である中村修二氏が

LEDの開発というのがスゴイですね。

 

本当に親の背中を見て育った、という感じがします。

 

明るい兄や、他の姉弟も中村修二氏の苦境や

研究の支えになったのではないでしょうか。

 

現在、中村修二氏は、カリフォルニア大の教授という顔の他に、

シリコンバレーのベンチャー企業「SORAA」社を起ち上げています。

 

この企業では、中村修二氏が開発した技術を使用し、

高い品質のLED照明を製造・販売しているそうです。

 

カリフォルニア州では、子煩悩な優しいお父さんとして知られており、

妻や幼い息子ら家族4人で一緒に、

月に2回ほど日本料理店に行き、ラーメンなどを子供に取り分けながら、

食ているそうです。

 

中村修二氏といえば、訴訟の時の怒りの表情が印象深いですが、

中村修二氏と以前、一緒に仕事をしたことがある方のお話では、

普段は全く怒ることはなく、飲みに行っても楽しい方なのだそうです。

 

中村修二氏の小学校の頃の夢は、

「『鉄腕アトム』のお茶の水博士になること」

だそうで、まさに夢を叶えたということになりますね。

 

赤崎勇氏の家族の反応は?

赤崎勇氏の父の口癖は、

「好きなことをやれ」と言っていたそうです。

 

兄は、赤崎正則さんで、

元九州大学大学院 総合理工学研究科教授です。

 

兄弟そろって、優秀なのですね。

 

赤崎勇氏の妻は、陵子さんで、テレビでインタビューに答えられていた姿や口調は、

とても品の良い雰囲気の奥様でした。

 

赤崎勇氏は、

「妻には、受賞を普段通りに伝えようと思う」

とのことでした。

 

 

赤崎勇氏の奥様へのインタビュー

Q.(赤崎教授が)帰ってこられたらなんと声をかけますか?

「「おめでとう」って言うのと、今まで長いこといろんなことがありましたけど、

85歳にもなって、毎日それでも学校に行って頑張っていますので、

私が力になれればと思っております」

 

赤崎勇氏は、研究一筋で、家事などは全て奥様がされていたようで、

まさに内助の功という感じがします。

 

科学ジャーナリストの寺門和夫氏によると、

「一言でいうと、(赤崎勇氏は)信念の人ということです。

自分の研究で絶対これをやる、これで成功するということを決めて、

他の人が撤退しても貫いたということです。

自分の研究の方法論を作って、目標を立てて、

必ずそれを実現するという事で進んできた方です。」

ということです。

 

赤崎勇氏の中学時代の同級生は、

「ガリ勉型じゃなかったですけども、授業時間の間にすべて吸収する

集中力とかそういうのが優れていた。

学校の成績だけでなくて、友情に厚く、人情に厚く、

誰とでも平等にフランクに付き合っていました。

だから、みんなに慕われていました」

 

「冬でも寒中水泳をやっていた。

寒さに負けないように鍛えるということですよね。

心身の鍛錬というのですかね」

 

天野浩氏もそうだったようですが、

勉強よりスポーツだったのですね。

 

それでも、この偉業を成し遂げられるというのが

素晴らしいです。

 

天野浩氏の家族の反応は?

天野浩氏は、テレビでインタビューに答えられているのを

見ると、本当に謙虚で良い方な雰囲気が漂っています。

 

「最初の感想としては、なぜ僕がノーベル賞を?と思いました」

というほど、謙虚な方です。

 

ノーベル賞受賞決定の喜びは、

妻・息子・娘に最初に伝えたいと話していました。

 

奥様は、先月から、単身でロシアに渡り、

現地の大学(ロシア国立ノボシビルスク教育大学)で

日本語講師をしているという才女です。

 

ロシアで教えたいという気持ちを知っていた夫は、

「あらそう。じゃあいってらっしゃい」

と気持ちよく送り出してくれたそうです。

 

奥様によると、

「離れているから、お互いの良さがわかるんですね。

一緒にいるとね、気が付かなかったり」

ということです。

 

現在、天野浩氏が家事も全てし、

妻の夢も応援してくれ、

ノーベル賞まで取ってしまうという、

なんて素敵すぎる旦那様でしょう。

 

天野浩氏には、京都大学大学院在学中の娘・彩さん(24)と、

長男(22・東京大学工学部に在学中)がいます。

 

娘の彩さんは、微生物の研究をされています。

 

↓は、天野教授の妻・香寿美さんと、天野浩氏の

受賞後、初めての夫婦の会話です。

 

妻:「おめでとー!スゴイじゃない!」

「ありがとう」

妻:「びっくりした!私も」

「びっくりだね」

妻:「良かったねー!ずっと頑張ってきたもんね。」

「ありがとうね」

妻:「すぐにお祝いできなくてゴメンね」

「いえいえ」

 

とても明るい奥様で、良い夫婦関係なんだな~、と

感じられる会話です。

 

「出会った時は、こんな未来が待っているなんて全然思っていませんでした」

と奥様は、語られています。

 

二人の馴れ初めは、なんとお見合いサークルということです。

 

奥様は、天野浩氏の第一印象は、

真面目できちっとしている方だと思ったそうです。

 

「自分は土曜日曜いつも家にいて日曜大工するような夫にはなれない。

俺は仕事が好きだから」

と最初に言われたそうです。

 

奥様は、それを承知の上で結婚し、陰で支えていたそうです。

 

受賞決定後、奥様に届いたメールは、

「なんか騒がしくなっちゃったけど、

いままで頑張れたのはママのおかげだよ。

ありがとね」

と、ノーベル賞受賞には一切触れていなかったそうです。

 

「パパらしい。余計なこと言わないんですよ。

仕事のことは一切家で言わないし。

パパらしいですね。う~ん納得」

 

妻のもとに初めて届いたという感謝の手紙に、

「まあ、そういってくれると嬉しいですね。

何もしてないのに私本当に」

と奥様も謙虚におっしゃっていました。

 

「逆に朝疲れていて、何も作らなかったりということが多いんですよ。

夫が自分のご飯ちゃんと自分で作って。偉いですね」

 

Q.夫へのメッセージは?

「おめでとう。すごいねパパ。

本当によくやったね。これですね。

見直したよ。

もうゴミ出しなんてさせてあげられないね、と言います」

とのことです。

 

結婚24年のご夫婦だそうですが、

お互いを尊重し、どこか初々しく、大事な家族という感じがして、

本当に素敵です。

 

娘の彩さんは、

「帰り道に先輩から電話で、

「お前のお父ちゃん、ヒロシって名前か」って聞かれて、「そうです」って答えたら、

「受賞してるで!」って」

 

「いやいや冗談でしょ え?本当ですか?」みたいな感じで」

 

「身の回りでなんでって思うことに対して、いちいち難しく答えてくるので、

研究者ってよくわからないなと、小さい頃は思っていました。」

 

「「虹はなんで七色なの?」って聞いた時にスペクトルの話をしたんですけど、

ちょっとよくわからなかった。

もうお父さんに質問するのはやめようと(笑)」

 

それでも父の影響で理系の研究に興味を覚え、

現在、農学研究科の修士課程で学んでいます。

 

「これからの日本を引っ張っていける人を父に持って

誇りだということを(父に)言いたいですね」

 

天野浩氏は、優しく穏やかな父だそうです。

 

インタビューを受けている彩さんは、

しっかりして明るい娘さんでした。

 

天野家流子育ては、

良くも悪くも余計な事には口も手も出さないそうです。

 

奥様によると、子供にああやれ、こうやれ、と命令したことは

一度もなかったそうです。

 

妻である香寿美さんの子育ての目標は、

「18歳になった時に、自分のことは自分で何でもできること、

自分の人生を自分で決められることを目標に育てました」

とのことです。

 

Q.今度、天野教授と会える機会は?

「授賞式準備のために、11月に一度帰国すると思うのですが、

その時に会えますね。」

と、奥様は次に会えるのが本当に楽しみなようでした。

 

天野浩氏の母・祥子さんは、

「(息子から)メールが来ました。

これからも今までと同じように一生懸命頑張りますって。

今まで育ててくれてありがとうって、はずみで書いてあった」

 

Q.照れくさいですね

「初めて。そういう言葉を聞いたのは」

 

新聞を手にしながら、照れくさそうに語る母は、

天野浩氏の謙虚さが伺える可愛い雰囲気の方でした。

 

天野浩氏に学んでいる、学生の方によると、

気さくで優しく、基本的に怒ることはないそうです。

 

受賞後の、師弟の電話連絡では、

「赤崎先生がおられなかったら、私の今のこういうことは全くないので、

本当にありがとうございました」

赤崎勇氏に感謝の言葉を述べていました。

 

数千回もの失敗を繰り返した天野浩氏ですが、

諦めない原動力は、名古屋大学在学中に教わったというある言葉でした。

 

「工学部(の工の字)は、人(一)と人(一)をつなぐ学問だと教わったんですね。

人の役に立つことをやるということだと」

 

科学ジャーナリスト 寺門和夫氏によると

「研究者としてもちろん優れていますが、

人の役に立つ研究をしたいという考えが

ずっと研究を始めた時から貫かれているというところに、

非常に感銘を受けました。」

 

人の役に立ちたいという一心で、

頑張って来られた事がよくわかります。

 

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■ノーベル物理学賞受賞者の共通点

赤崎勇氏

研究が上手くいかなかったとき

「たとえ最後の一人になっても研究をやめようとは思わなかった」

 

天野浩氏

「土曜も日曜も大学にいる、研究の虫といった方。研究に対して心血を注いでいる」

(学生談)

 

中村修二氏

「「俺は俺のやり方で勉強する」と数学や物理の難問を公式を使わず解いていた」

(高校時代の同級生談)

 

3人の共通点としては、

信念を絶対に曲げない、諦めない、

自分の目標を決めたらそれにまい進するというところや、

人のために、という気持ちが共通しているように思います。

 

■青色LEDはなぜこんなに難しかったのか?

半導体の組み合わせで色が決まってくるのですが、

赤や緑は割と簡単にできましたが、

青い色の半導体がなかなかできなかったそうです。

 

青い色に使うための半導体を見つけて、

それを実際に光るように加工するということが

非常に難しかったそうです。

 

皆ができなくて、撤退していく中で、

それがやっと実現したということになり、

それくらい難しい事だったようです。

 

青色LED開発までの歩み

発光ダイオード(LED)とは、電流を流すと発光する半導体です。

 

1962年 赤色のLEDが開発される。

1968年 緑色のLEDが開発される。

1989年 世界で初めて青色LEDの開発に成功

 

中村修二氏は、開発装置を自ら製作するなど休み返上で研究に没頭し、

1993年 青色発光ダイオードが世界初で製品化されました。

 

どの方も、ご家族や周囲の方に支えられ、

長い困難な研究生活を乗り越え、

偉業を成し遂げられたようです。

 

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